子どもの頃に成りたい職業の1つに学校の先生があったのですが、私がなぜ教育学部に行かなかったかというと、私が入学した地元国立大学の教育学部に同じ高校の奴が志願してて(イマイチ、気が合わない奴)、そいつが、“川崎が行くなら合格枠が1つ減るから困るわ~”とか言われたのと(今思えば小さなことですが)、学校の教師はやることに色々縛りもあって、思うようなことができなさそうな気がしたのと(言い訳です)、当時はバブル絶頂期で、大学行くなら、就職の選択肢が多い学科、かつ行く大学は自分の偏差値より低い地元国立大学にしたので、行くなら一番偏差値が高い学科(偉そうですね)てことで、その大学の工学部で一番偏差値が高い電子工学科に入学しました。
 
家庭教師は大学1年から始めたのですが、
大学1年の夏休みに、たけべの森という所で期間バイト(夏休み期間のみ)をしていた時、塾の生徒を30人くらい連れて、キャンプ場に、私が講師をすることになる塾の先生(女性)がやって来ました。
そこで先生に私は気に入られ、”私の塾でバイトしないか”と誘われたのが、塾講師の第一歩でした。
 
その先生は、中学校の教師で、夜は個人学習塾をやってました。(ひとり親家庭でした)
その先生も理系で、塾では中学生に数学・英語・理科を教えていました。
一クラスは20人くらいで、先生が教壇に立ち、教え、私は生徒が分からないところを教えたり、テストのフォローをしていました。和気あいあいとした塾で、楽しかった記憶しかありません。
 
塾でのその日の授業が終わったら、毎回、夕飯をご相伴にあずかってました。(今思えば、かなり図々しいですね)
夕飯をいただきながら、私は息子さん2人(小学生と中学生)と楽しく会話をしてました。
 
その塾はすごく近隣から人気があり、入塾を断るのが大変と先生は言われてました。
 
大学4年になった時、先生から“塾の卒業生で高1になった子を教えてみない?”と言われ、
それまでは先生のサブとして塾で中学生を教えていたのですが、自分ひとりで高校生を教えることになりました。
 
大きな書店に行き、どの問題集がいいか漁りまくりました。
私も、もろ理系なので、高校生に教えたのは、数学・英語・理科です。
最初は問題集選びに、結構時間を費やしました。
生徒にあわせた問題集を探したので、一人ひとり同じ教科でも違った問題集をやらせてました。
 
また、その先生はバイタリティで、毎年、沖縄に行って、スキューバダイビングをしてました。
定宿としていたペンションのホームページ作成もしていました。
そのペンションは、ホームページ作成を発注していたそうですが、ホームページを見て、“これくらいなら私がタダで作ってあげるわ”と言って、ペンションのホームページ作成をされてました。
 
私がパソコンを教え始めたのも、その先生が一人目です。(社会人になってからです)
当時のOSは、Windows Meでした。(わかりますかね?)
 
先生に、“パソコン教えて”と言われたのがきっかけで、毎週、2時間ほどお教えしてました。
パソコンの初歩操作や、ワード、エクセル、ホームページ作成(当時は、ホームページビルダーというツールを使ってたと思います)など。
 
慣れたら、先生は塾の教材として、購入した問題集だけでなく、自分がワードやエクセルで作成した問題を生徒にやらせたりしてました。
 
その先生は多趣味で、俳句とかもやられてて、本当にバイタリティだなと思いました。
 
数年前までは、塾をされてたのですが、「もう歳だし、お金もあるし、塾やめて、好きなことするわ」と言われ、塾は惜しまれつつも廃業されました。
 
で、その当時から「一人ひとりにあった問題を個別にだせないかな」という思いが私の中にあり、ソフトウェア企業に就職したので、どうプログラミングすれば効率的に個別の問題作成ができるかというのもずっと考えていました。
すららの説明会に行った時は、“やられた”(俺が思ってたことを実現している)と思いました。
 
で、一般企業に就いたものの、やっぱり好きなことがやりたいと思うようになり、今に至ります。
 
お金があれば幸せかというと、私は心の倖せの方を優先します。
お金は、たまに贅沢できるくらいで、普通に生活ができれば問題ないかなと。
 
最初から自分がやりたい職業に就けた人は、幸せだなと思います。
精神的に豊かな方が後々後悔もしないだろうし、幸せに死ねるかなと。(私個人の見解です)
 
で、大学卒業当時に流行りの仕事に就いてしまった私ですが、結局、好きな方に向いてしまい、その経験もあるので、お子様には、何が好きなのか、将来どんなことをしたいのか、それを実現するには何をすることが必要かを考えてもらいたいと思っています。
 
徒然なるままに書きなぐり、一貫性のない文章になってしまいましたが、いかがでしょ。